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インギンブレーと妙技

インギンブレーと妙技

by TeamDice on 2021.6.8 Tue

喫茶店で隣の席から「インギンブレー」という聞き覚えのない言葉が何度も聞こえてくる。細身スーツの男二人、興奮気味に会話をしている。盗み聞きするようで彼らには申し訳ないが、謎の言葉「インギンブレー」が気になって、どうしても耳をすましてしまう。

特に「インギン」の部分が「Ping pong」とか「handsome」とかの、書いてあるけど発音しない系英語を彷彿とさせて、なんとなく口にして言いたくなってしまう。下を向いて声を出さずに唇だけで「インギンブレー」と何度か繰り返してみる。やはり思った通り気持ちがいい。粘り気の強い語感が脳にこびり付いて離れない。インギンブレー。いったいどんな意味なのか。

「インギンブレー」と打ち込んだGoogleは「慇懃無礼」という言葉を第一に検索結果に表示した。流行りのビジネス用語か何かだろうと思っていた僕の予想は大きく外れた。ガチガチに日本語だ。しかも画数多めの四字熟語。意味は「言葉や態度などが丁寧すぎて、かえって無礼であるさま」とある。一読して身震いが起こった。なんと恐ろしい言葉なのだろうか。

弱気な僕の唯一といえる処世術が「とにかく丁寧に接する」だ。万が一に間違いがないよう、時には相手が子供であろうと敬語を使う。しかし、この慇懃無礼という言葉によって、それが返って無礼であるということを知ってしまった。この時から僕は慇懃無礼に怯える生活を余儀なくされた。目上の人と接するたび、初対面の人と接するたび、強面の人と接するたび、慇懃無礼の影が見え隠れして、裸で揚げ物をするような生活を送っていた。

ある日、僕は光を見た。近所の中華屋だった。昔からある町の中華屋。濃い味を白米で流し込むため、昼時は労働者が列をなす。忙しく働く高齢の女将さんを気遣い、客は店に奉仕する。お冷はセルフ、膳はカウンターの上に上げ、注文と会計は大きな声で。常連の姿を手本に、暗黙で皆これらの習わしに従う。この連帯感を常連と新参者のちょうど狭間ぐらいの僕は、半分心地よく感じ、半分鬱陶しく感じていた。

珍しく待ちなくカウンターに着席すると、同時に戸が開いた。同じ人間が二人入ってきたように見えた。ペアルックだった。ツバの広いハット、花柄のワンピース。真新しいライダースジャケットを肩から羽織り「ね!ね!ヤバいでしょ。キタナシュランでしょ」と大きな声。

空気が一変した。店内で最も支配的だったNHKラジオの音を、彼女達の会話がかき消していく。女将さんが「何にしましょう」と言い終わる前に重ねて「お母さんのおすすめなに?」と言ってみたり、やっぱり料理が来たら撮影会を始めたり。常連客はウイルスの侵入に免疫反応を起こすように、静かに熱を上げていた。それを横目に新参者達は萎縮を重ねて、もう石のようになっている。

彼女達は悪くない。法に触れない限り自由でいいのだ。でも常連の気持ちも新参者の気持ちも分かる。常連は歴史を守る義務がある。新参者は圧倒的な自由を前に、コソコソ写真を撮っていた自分を恥じているだろう。

ほぼ同時に料理が届いた僕がまだ食べている最中「お母さ〜ん!お会計おねが〜い!」と彼女達は早々に席を立った。「マジ腹パン。二人でシェアしてもよかった感じだね」この店にそういうシステムが存在するのかは知らないが、確かに半分以上料理が皿に残ったままだ。もちろん膳を上げる様子はない。流石に僕も眉を顰めた。

会計が済み、女将さんは彼女達の後ろ姿へ「どうも〜」といつもの調子で声をかける。すると彼女達は振り返りことさら大きな声で「お母さんとっても美味しかったよ〜!また来るね!」と女将さんに手を振った。常連客も新参者も僕も、皆が女将さんの反応に注目した。笑うか、手を振るか、無視するか。それによって何かが決まる気がしたからだ。

女将さんは表情ひとつ変えずいつも通り「どうも〜」と言って、すぐに厨房の中に戻って行った。彼女達は笑顔で帰った。そして、常連も新参者達も僕もそれぞれがなんとなく救われた。

変わらない凄さ。これまさに妙技と言える。一朝一夕で身につくものでは決してない。慇懃無礼など微塵も感じさせない女将さんの姿に憧れつつ、この日から僕は、とりあえず無駄に手を振らないようにとだけは心掛けている。

藤雄紀

Writer
Team Dice

ダイスアンドダイス スタッフ