Things

ディーン・フジオカとSDGs
by EtoKatagiri on 2022.5.24 Tue
ディーン・フジオカ主演の新ドラマ『星は青いうちに撃て』。ホテルチェーン御曹司の神崎哲也(ディーン)が傘下にある営業不振のレストラン「ベル・ジュポン」の再建を任される。最初は反抗的な従業員たちとも次第に信頼関係が生まれていき、三ツ星獲得を目指して奮闘する姿を描く。持ち前の器用さゆえ、何かに執着することなく生きてきた神崎。恋愛もカジュアルに楽しんできたが、料理長の娘・彩音との出会いをきっかけに、一人の女をひたむきに愛するようになる。
という夢を見ました。もちろん彩音役は私でした。個人的にディーン・フジオカには1ミリも興味がありませんし、彩音は女子高生という設定で、私が演じるのもディーンがご執心なのもコンプライアンス的にいかがなものかと思いますが、何の努力も策略もなしにただ存在しているだけでイケメンに好意を寄せられるという構図はま~気分がよく、久々にすっきりと目覚めることができました。
しかし、こんな既視感だけのクソつまんなそうな視聴者をナメきった最終回だけ観れば全話想像できそうなドラマを一体誰が観るのでしょうか。このドラマを作るために俳優、演出家、監督、脚本家、技術スタッフ、スポンサーなど多くのプロが無駄に駆り出され、無駄な金と無駄な時間と無駄な労力が費やされ、公の電波を無駄に使い、観る側にもつまらないという無駄な苦痛を与え、無駄の連鎖によってビッグバンが起こり、無駄のブラックホールが生まれるのです。とはいえ既視感があるということは、こういったドラマが世の中で広く受け入れられているということ。セオリー通りの展開を観たいという需要があるから供給されているのです。
最近、子供向けの教育番組でSDGsを植え付けようとする偽善をよく目にします。子供でも覚えられそうな軽快な歌にのせてSDGsを説明したり、キャラクターを使ってエピソード仕立てにしてみたり。年端も行かない子供に、これまで自分たちが壊してきた環境やら福祉やら労働環境について「改善しよう、それがいいことなんだよ」とただ説いたところで、子供からしたら「知らんがな」です。よぼよぼの老人が生まれたばかりの赤子に「ちゃんと年金払っておくれよ」と言っているようなものです。どう受け取るかは子供個人に委ねられてはいますが、そもそも大人の中身のない勝手な押し付けを正しいとする所業が平然と行われていることに違和感を覚えます。
そんなこんなでディーンとSDGsに心をかき乱されていた時、ふと一昨年読んだGRAPEVINEの田中和将さんのエッセイ『群れず集まる』を思い出しました。コロナ禍初期に『文學界』に寄稿されたもので、元気や勇気を「与えたい」という烏滸がましい動機で作品を発信するミュージシャンが多いが、受け取る側が自らの解釈で咀嚼して初めて「勇気」や「元気」に変換されるものだ、と。複雑な家庭環境で幼少期を過ごした自分にとって音楽は救いではあったにせよ、「勇気を与えたい」という作為を少しでも感じさせるものには心が動かなかった。しかしながら業界全体として「与える」側と「わかりやすくそう示してくれるもの」を求める側の関係性でパッケージが出来上がっている、と綴られていました。
ディーンの新ドラマも、子供向けのSDGs教育も、発信側の意図は明確で、その中に「約束された正しさ」を見出したい受け手がある一定数いるのも事実です。SNSの普及で世界中の情報が簡単に手に入るようになった今、社会は多様化しているように見えて画一化へと向かっています。迎合するのが賢いのか、尖るのがかっこいいのか。正解なんてありませんが、せめて受け取る側が自由に選択・判断できる余白を残した発信をすることが大切なのではないでしょうか。
とまあ、そうは言っても、こと恋愛においては「やっぱりベタが欲しいのよ」という声もあるでしょう。私だって女ですもの、それくらいわかりますとも。まだ1話しか演じていない『星は青いうちに撃て』の続きをみなさんにお届けするため、今日は早めにベッドに入りたいと思います。神崎と彩音がどうなっていくのか、どうぞご期待ください。